財務長官の言葉は二種類ある。口にするものと、口にしないものだ。4月15日の片山・ベッセント会談については、後者のほうが雄弁だった。
1月、米財務省はベッセント米財務長官が「健全な金融政策の策定と伝達の必要性を強調した」と記した。日銀への利上げ催促の定型句だ。4月、その一文は消えた。会談後、片山さつき財務相は記者団に「日銀の金融政策は議論しなかった」と明言した。
沈黙は方針転換のサインだ。
前稿「ガンマを管理する財務長官」で、ベッセントが操っているのは金利の水準ではなく、衝撃が来たときの市場の反応の形だと書いた。その手立てが、静かに差し替わった。
2024年8月の記憶
1月の構図は単純だった。日銀に利上げを促し、日米金利差を縮める。日米10年債スプレッドが200bpを割れば、キャリートレード(低金利通貨で調達し高金利通貨に投資する取引)の巻き戻しが始まる。ベッセントはそれを見据えていた。
スプレッドは4月時点で183bpまで縮んだ(筆者試算、4月17日時点)。しかしベッセントは日銀への公の圧力を降ろした。前面に出たのは片山自身の介入への構えだ。就任半年の新財務相は、前任の加藤勝信氏が9月に結んだ日米為替共同声明を継承し、より前面に押し出している。「大胆な行動も辞さない」と繰り返し、9月合意を拠り所とした。ベッセントは異議を唱えなかった。160円のフロアを支えるのは、日銀の利上げではない。片山が発し、ベッセントが公に異を唱えないことで成立する介入の構えだ。
なぜこれで済むのか。答えは2024年8月にある。
0.15%の利上げで日経平均が約12%下がり、VIX(ボラティリティ指数)が一時65まで跳ねた日だ(筆者確認)。ショートガンマ(負のガンマを抱えたポジション。相場が動くほど同方向のヘッジを迫られ、動きを増幅する)が連鎖した瞬間を、日銀の植田和男総裁は忘れていない。繰り返すつもりもない。片山が会談後、中東情勢の不確実性を背景に多くの中央銀行が様子見の姿勢を取っていると付け加えたのは、動かない日銀に対外的な言い分を与えた。
日銀を縛るのはベッセントではない。日銀自身の過去だ。だからベッセントは叫ぶ必要がない。レバーは引かれていない。だが、手元から離したわけでもない。そのままなら、日銀は動かない。
市場は読み取った。OIS(翌日物金利スワップ)に織り込まれた4月会合利上げ確率は31%から18%へ下がり、6月会合は46%から56%へ上振れた(筆者確認)。
3カ月で変わったもの
変わったのは日銀ではない。ベッセントの計算だ。
1月、米10年債利回りは4.0%前後、住宅ローン金利は政治的に耐えられる水準だった。原油は70ドル台前半。日銀に利上げを促しても、米国債市場は揺るがない。圧力のコストは小さかった。
4月、状況は反転した。ホルムズ海峡の緊張で原油は一時100ドルを超え、4月17日の停戦発表を受けて80ドル台まで戻したが、1月の70ドル台前半より依然高い。米10年債は4.25%を試す。4.25%は住宅ローン金利を政治的に許容できる上限に届く水準で、11月の中間選挙を控えるベッセントの真の閾値だ。ここで日銀が動けば、2024年8月の連鎖が再演する恐れがある。日経平均が崩れ、VIXが跳ねる。さらに厄介なのは、米国債への安全資産買いが期待ほど強まらず、むしろ生保・年金の米国債売却が加速することだ。
日銀を動かす代償を、ベッセントが自分で払う構図だ。1月は圧力が筋だった。4月は沈黙が筋だ。
実需は信じ、短期筋は値踏みする
ここまでは価格の話だ。ポジションは別の絵を描いている。
CFTC(米商品先物取引委員会)が4月17日に公表した4月14日時点の円ポジションは、二つの向きに割れた。
アセットマネジャー勢(年金基金や投信など長い資金)は円売り越しを1万0033枚へ縮めた。前週1万5945枚からの5912枚のカバー取引だ。実需はフロアを信じ、キャリーを再構築し始めている。
レバレッジドファンド勢、つまり短期の投機筋は逆を打った。円売り越しを5万4445枚へ拡大し、ネットで3335枚、ショート側だけで4309枚を積み増した。
これは信念の表明ではない。イベント・トレードだ。4月26日のレバノン停戦期限まで10日間、160円のフロアは日米の為替当局が守り、日銀は動かないと織り込まれている。その条件下では、円ショートは保有するだけで日々のキャリーが積み上がる。停戦延長ならドル円はレンジの上端で止まり、不成立なら160円試しに走る。どちらに転んでも、4月26日を越えれば利益確定の機会が来る。短期筋が賭けているのは方向ではなく、時間だ。
この仮説が誤りと分かるのは、4月24日公表のCFTCで短期筋がさらに積み増し、同時にドル円が159円を超えて加速した場合だ。そのときは、イベント・トレードではなくフロア破りの確信的ショートに転じている。
仮説が正しくても、イベント・トレードには片側の脆弱性がある。停戦延長で円高が想定を超えて進めば、5万4千枚のショートは踏み上げに変わる。ショートカバーの暴走という下方シナリオが、賭けの反対側に待っている。
両者合算のネットショートは6万7055枚から6万4478枚へ、2577枚の縮小にとどまった。ドル円が158円台で落ち着いている割に、カバーは思ったほど進んでいない。介入容認は価格に織り込まれ、実需に受け入れられ、投機筋には値踏みされている。レバーは差し替わった。だが、まだ一度も引かれていない。
10日間は長すぎる
日経平均にとっての意味は、一筋縄ではない。慢性と急性に分けて考えたい。
慢性は、金利差縮小を起点とする資金還流だ。生保・年金の対外証券売却は日銀の動きに連動する。前稿で示したとおり、2月の対外中長期債売越額は3兆4200億円と前年比で最大の月次流出となった。財務省の対外及び対内証券売買統計ではその後も売越しが続く。利上げが6月に先送られた分、この流れも6〜8週間遅れる。「春から夏の再評価」は夏本番以降にずれる見込みだ。
急性は短期の10日間にある。4月17日、日経平均の現物は1.75%安で引けたが、夜間先物は1.51%戻した(筆者確認)。この乖離は、投資家が答えを知っている証拠ではない。答えが見えないから、現物で週末リスクを落とし、先物でオプション性を残す。みな同じ手を打っている。
この状況で、現物のドル円や日経平均の方向を張っても旨味がない。勝負所はオプション市場だ。4月26日を挟むストラドル(同一満期のコールとプットを同時に買い、上下どちらの大きな動きでも利益を取る戦略)は高い。それでも、短期筋のイベント・トレードが崩れる瞬間の非線形性を取れるのは、この手段しかない。
記録更新と介入フロアが並存する今の構図は、奇妙に静かだ。日経平均は史上最高値、円は158円台、米10年債は4.25%の手前。どの資産クラスも同じ前提に沿って配置されている。4月26日は越え、日銀は動かず、ベッセントは黙り続ける、という前提だ。異なる方向に賭ける投資家同士ですら、この前提は共有している。
これを安定と呼ぶか脆さと呼ぶかは、4月26日以降に分かる。介入容認というフロアは、試されていないから機能している。試された瞬間、それがフロアなのか鏡なのかが判明する。
沈黙はどこまで持つか
4月26日のレバノン停戦期限が最初の正念場だ。延長されれば原油は下値余地が出て、介入容認は、発動せずとも機能するフロアとしての地位を固める。円ショートを積んだ短期筋は強制的にカバーに追われ、円高が加速する。延長されなければ原油は80ドル台後半を目指す展開に戻り(筆者試算)、短期筋のイベント・トレードは報われる。米10年債が4.25%を超えれば、置かれていたBOJレバーが数日で引き直される可能性も出てくる。6月の利上げ織り込みが4月会合(4月27〜28日)まで前倒しされる展開もあり得る。
検証点は二つある。まず4月24日公表のCFTC(4月21日時点、停戦期限前)で、レバレッジドファンドの円売り越しが5万枚を割るかどうか。イベントを待たずに降りていれば、介入容認モデルは強い裏付けを得る。積み増していれば、5月1日公表分(停戦期限後の4月28日時点)が本当の決着を示す。
5月中旬のベッセント訪日が最後の公の正念場だ。トランプ米大統領の訪中途上での立ち寄りという形式は、本命の訪問ではないことを示唆する。だが東京で記者団を前にしたとき、ベッセントが「健全な金融政策の策定と伝達」の語を復活させるかどうかで、4月の沈黙が偶発か恒久かが決まる。立ち寄ったまま静かに抜ければ、介入容認モデルは政治的な合意に昇格する。一言でも以前の文言が戻れば、4月はただの休戦だったことになる。
筆者の見立てでは、沈黙はこの正念場を乗り切る。ベッセントも片山も、今は介入容認モデルを壊す理由がない。だが、その先にも問題は残る。日銀が動かないことを前提に積まれたショートガンマは、市場のどこかに残ったままだ。
ベッセントはBOJレバーを手放した。だが、かつて引かれた日の記憶は消えていない。沈黙もまた、介入の一形態である。静かなほど効き目は強い。最初の正念場を越えるまでは。
本稿は公開情報に基づく筆者の解釈であり、誤り得る。判断の材料となるよう出典を示した。本稿は一般情報の提供を目的とし、特定の金融商品の売買を推奨するものではない。投資判断は読者自身の責任において行われたい。