投機筋の円売りが、記録的な水準まで積み上がっている。にもかかわらず、ドル円のオプション市場はこの夏をほとんど波風のないものとして値付けしている。この二つは、本来両立しない。

米商品先物取引委員会(CFTC)の最新データ(6月2日時点、6月5日公表)で、ヘッジファンドなどレバレッジド・ファンドの円ネット・ショート(先物+オプション)は10万5136枚に達した。前週から1万8887枚の深掘りである。1枚は1250万円だから、想定元本でおよそ1.3兆円の円売りだ。建玉(OI、未決済残高)は前週比8万9327枚増の55万9092枚に膨らんだ。アセットマネジャーも6万2814枚のネット・ショートで、売りは一つの主体に偏らない。火薬は満タンに近い。

この水準は、近年の円キャリー(安い円を借りて高利回りのドル資産で運用する取引)のサイクルでも際立って大きい。投機筋の円ショートが積み上がった末に、わずか数日でドル円が161円から142円へ急騰した2024年8月の巻き戻しは、過剰な売りが強制的に買い戻される際の典型だった。その直前に匹敵する規模が、いま再び積み上がっている。

ところが、オプションが映す世界は静かだ。アット・ザ・マネー(ATM、行使価格が現値に近いオプション)の予想変動率(IV)は、6月会合を内包する期近(7月9日満期)が7.2%、2カ月物7.7%、3カ月物7.9%、6カ月物8.4%、12カ月物8.7%。低い水準で、期近が最も安く、奥へなだらかに上がる順構造だ。平時のドル円IVは8〜10%、ストレス時で15〜25%、2024年8月の巻き戻しでは25〜30%まで跳ねた。今の7%台は平時の下限である(数値はSentry Derivatives、6月9日時点)。

日銀は6月15〜16日の会合で0.25%の追加利上げに動くとみられる。OIS(翌日物金利スワップ)市場はこれを約93%織り込む(TOTAN ICAP、6月8日時点)。ほぼ織り込まれていることが、利上げそのものを火花にしない理由だ。予定どおりの利上げが出るだけなら、円の反応は限られる。会合をまたぐ7月限のIVにイベント・プレミアムの盛り上がりがないことが、その裏返しだ。市場は6月会合を非イベントとして値付けしている。

円の下値には財務省(MOF)が立つ。4月末から5月にかけて11兆7349億円を投じて160を防衛し、外貨準備は5月に771億ドル減って1兆3059億ドルになった。160近辺は、価格を気にせず円を買う「ふところの深い買い手」が現れる水準である。これは円に敷かれたプット・オプションのように働き、円ロングの下方リスクに蓋をする。ただし弾は有限だ。

ここで構造が自己強化的になる。MOFの円買いは、保有する米国債(UST)を売って賄われてきた。だがUSTを無秩序に売れば利回りは上がる。住宅ローン金利に響くUST利回りの上昇は、ベッセント米財務長官にとって最も避けたい事態のはずだ。

米国の政策は、日銀の利上げを支持し、円高とキャリー巻き戻しを通じてUST利回りを下げ、住宅に効かせたい——その方向にそろってみえる。介入の資金繰りにも、USTを市場に投げ売りせずに調達する手段(中央銀行間のレポなど)がある。ただしここから先は、確認された政策ではなく一つの読みだ。それを裏づける協調の実態は、公開データには映らない。

この読みが正しければ、政策の追い風には賞味期限がある。ドル円の下落がUST利回りを下げ、住宅ローン金利を経て住宅活動と有権者心理に届くには時間がかかる。11月の中間選挙に間に合わせるなら、UST低下は遅くとも夏のあいだに定着していなければならない。逆算すると、当局が巻き戻しを促す誘因が最も強いのは6〜8月だ。

とすれば、6〜7月に円高への急激な巻き戻しが起きても、ワシントンにとっては痛手ではない。望む方向が前倒しで来るにすぎない。条件は一つ。それがUST市場を巻き込む無秩序な利回り急騰に発展しないことである。加速はさせても、爆発はさせない。前段の、投げ売りを避けて介入資金を賄う手立ては、その爆発を抑える備えと読める。

財務省の対外・対内証券投資(週次、6月4日公表)にも、巻き戻しの初期の兆しがにじむ。5月24〜30日の週、本邦居住者は対外中長期債を5週ぶりに売り越し(▲1848億円)、対外株式・投資ファンド持分も2週続けて売り越した(▲1兆720億円)。海外資産を取り崩す動きである。一方、非居住者は日本株を9週ぶりに売り越す(▲4912億円)半面、中長期国債を1兆2458億円買い越した。日銀の正常化で利回りの付いたJGBへ資金が向かっている。一週だけで断ずるのは早いが、方向は本稿の読みと整合する。

そして、ここが本筋になる。オプションは「6月会合あたりがヤマで、その後は凪」と値付けしている。リスクリバーサル(RR、同程度の確率の円高オプションと円安オプションのIVの差)は全限月で円高側に傾くものの、その傾きは穏やかで、期近の約▲1.1%から6カ月物▲0.3%、12カ月物▲0.1%へと奥ほど薄れる。しかも円安側の裾(160超え=MOF防衛線の崩落)には、近いところでほとんどプレミアムが付かない。市場はどちらの裾も確信を持って値付けしていない。読みは「巻き戻しがあるなら近場、夏以降は静か」というものだ。

だが構造はその逆を示す。記録的なショート、膨らむ建玉、そして政策の追い風が最も強い窓——いずれも夏に集まる。低く平らなIVと記録的なショートの組み合わせは、教科書的な「ショート・ガンマ(売り手が値動きを増幅させる持ち高構造)の危機前」の地合いそのものだ。危機は、たいてい静けさから来る。2024年8月も、暴落の直前までIVは低かった。

公平を期せば、市場が正しい可能性もある。当局が総出で秩序ある「緩やかな空気抜き」に成功し、静けさが正しかったと分かる世界はありうる。市場との対立は方向ではなく、その荒れ方にある。当局も巻き戻し自体は望む。問われているのは、それが無秩序な急落になるか(本稿の読み)、滑らかに終わるか(市場の読み)だ。火薬がいくら大きくても、引き金が引かれなければ何も起きない。今のIVが告げているのは「本稿の見立てが正しければ、夏のボラティリティは割安に置かれている」という乖離であって、答えではない。

見るべきは数字より性質だ。VIX(恐怖指数)の単なる上昇ではなく、奥の限月のRRが円高側へ立ち上がるか、信用スプレッド(BofAのハイイールドOAS、低格付け債と国債の利回り差)が同時に開くか、そしてドル円がVIX上昇に対し、ある時点で上(円安)から下(円高)へ向きを変えて加速するか。これらがそろったとき、眠っていた市場が目を覚ます。今はまだ、手前の限月の薄い傾きだけが、6月会合にうっすら目を開けているにすぎない。

本稿は方向と構造、そして市場の値付けのズレを述べた。何を、いつ、どれだけ持つかは読者自身の判断である。確かなのは一つ——史上最大級の片張りを、当局がいくら望んでも、静かにほどき切るのは難しい。